苦しみを罪の報いと受け取ると、変わる道を見失います

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虐待する親のもとで育ったり、つらい結婚生活を長く送ったりすると、「私が何の罪を犯したというのか」と思うことがあります。理由のわからない苦しみよりも、自分が悪いことをしたから受ける罰だと信じるほうが、まだつじつまが合うように見えるからです。自分のせいなら、世の中は決まりどおりに動いていることになり、これから気をつければ同じことを避けられるように感じられます。

つらいことが起きたのは、本当に自分のせいなのでしょうか?

苦しみがあるというだけで、罪があったと結論づけることはできません。他人の暴力や無責任、病気や事故は、被害を受けた人の道徳性とは関係なく起こります。

誰のせいかを明らかにすることと、責任を正確に問うことは、何が違うのでしょうか?

自分を責める人をなぐさめようとして、「これは誰のせいでもないよ」と言うこともあります。この言葉は自責をやわらげてくれるかもしれませんが、実際に誰が害を与えたのか、誰が責任を負うべきなのかまで、ぼかしてしまうことがあります。暴力をふるった人、世話をする義務を放り出した人、安全のための決まりを破った人には、はっきりとした責任があります。責任を正確に問うとは、このように誰が何をしたのかを見分けて、その人がしたことの責任を問うことです。

ただし、誰のせいかを明らかにして、すべての苦しみの原因を一人の人に負わせたからといって、自分の人生が回復するわけではありません。責める相手が見つかっても、いま自分に残っている傷はそのままで、これからどう生きるかは相変わらず自分で選ばなければならないからです。ですから、責任を問うことと並んで、自分を危険にさらすものから離れ、必要な助けを受けながら、自分の傷を手当てすることもしなければなりません。

苦しみの意味は、どこから生まれるのでしょうか?

つらい出来事は本当の自分に出会わせるために、つまり自分が誰なのかを知らせるためにやって来たのだと決めつけると、受けた被害を耐えるべき運命のように受け入れてしまうことがあります。自分を知らせるために来たことなら、避けずにくぐり抜けなければならないもののように感じられるからです。けれども、ある苦しみが本当にそうした目的で来たのかどうかは、誰にもわかりません。

ただ、すでに経験したことから、自分が何を大切にしていて、どんな生き方を望まないのかを知っていくことはできます。これは、苦しみが初めからそうした目的をもってやって来たという意味ではありません。経験したあとで、自分が知っていくことです。ですから、苦しみの意味は、苦しみがなぜ来たのかをよいように解釈する説明から生まれるのではありません。苦しみを経験したあと、自分がどんな方向に生きることを選ぶかから生まれるのです。

「私が何の罪を犯したというのか」の代わりに何を問えば、できることが見えてくるのでしょうか?

「私が何の罪を犯したというのか」という問いは、この苦しみは自分の過ちへの罰だという考えから出発しています。そのため答えも、「きっと自分が何か悪いことをしたのだろう」という自責や、「罰なのだから耐えて生きるしかない」というあきらめに流れやすくなります。そうではなく、「誰がどんな責任を負うべきか」「いま何が自分を危険にさらしているか」「自分が受けられる助けは何か」を問う必要があります。

問いが具体的に変わると、行動も生まれます。何が自分を危険にさらしているのかを問えば、暴力から距離を置くことができます。誰が責任を負うべきか、どんな助けを受けられるかを問えば、法律や医療の支援を探すことができます。また、「どうして自分はいつも変な人にばかり出会うのだろう」と思うほど似たような人に何度も出会ってきたのなら、これからどんな人と付き合うかの基準を立て直すこともできます。

自分が受けた仕打ちが、自分の価値やこれからの人生を決めるのでしょうか?

理不尽な目にあったからといって、自分が理不尽に扱われてもかまわない人間だという意味ではありません。子どものころ守ってもらえなかったという事実も、愛される価値がないという証拠ではありません。自分に起きたことと、自分という人間の価値は、分けて見なければなりません。

苦しみを経験したからといって、そのことに感謝したり、それによって必ず成長したりしなければならない義務もありません。まず、自分のせいではないのに背負っていた責任を下ろす必要があります。誰かが害を与えたのなら、その責任はその人のものです。そして、安全を取り戻さなければなりません。そのうえで、何を守って生きていくかを自分で選んでいきます。そうしていくうちに、自分がどんな人間なのかを、受けた仕打ちではなく自分の基準で決めていけるようになります。


執筆:金亨根(キム・ヒョングン)——ソウル依存症心理研究所 所長、現代精神分析教育院 院長。対象関係論にもとづく心理療法家、そしてスーパーバイザーとして、臨床と教育に携わって26年になります。ご相談は相談掲示板へ。

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